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関西単一労働組合結成宣言

 

 

関西のすべての労働者の仲間たち!

 われわれはいま新しい労働組合――関西単一労働組合を結成した。

 すべての労働者の仲間たち。労働者の生活と権利、生命が日夜奪われ、人間が人間として生きるのではなく、企業と機械に従属して労働力を売ることを通じてしか生きることができないでいる今日、そして、本来それらとの闘いを組織しなければならない労働組合が、企業と機械の番人になりさがりつつあるとき、人間として、労働者として真に生きること――つまり、労働者階級の解放にむけての真の企業を越えた労働組合を新しく結成することは、われわれにとって誇りとするものだ。

 

1、すべての労働者の仲間たち

 仲間たちは、現在の状況に対し、絶望感・無力感をもってはいないか。すでに労働組合のある企業に働く者も、労働組合もなく展望もない企業に働く者も、皆同じ感想をもっていないか。

 それは、国家や資本家のあらゆる決定が、まったくうごかすことができないものだというブルジョア常識の中にある。それは、労働条件・賃金は会社の利潤をおびやかすことのない、と自ら定める、あるいは定めるよう教えこまれる範囲での改善でしかありえない、とする常識と、選挙で1票を投じることによってしか自らの要求を実現する道はないとする常識によって支えられているのだ。

 そして現実は、この労使ともどもの常識の中で、労働者は低賃金にあえぎ、労働密度のアップや配置転換に協力し、首切りをやむを得ないものとしぶしぶ承認し、労働災害と職業病の多発を黙認するか気づかないでいる。そして、資本はこの常識の上に、世界でも急激な高度成長をとげてきたし、憲法や諸立法に書きこまれている労働者の諸権利は実態上剥奪されてきた。

 労働者は社会の主人公になっていない。常識は、資本と権力への闘いなしに、現実に労働者全体の闘いなしには、転換できない。

 

2、仲間たち

 生活と生命・健康と権利の闘いは、われわれに君臨する資本と権力に対する闘いなのだ。

 独占資本は、自ら肥え太るために、技術の絶えざる革新をはかり、工場群の乱立をはかることを中心に、公害=企業害をまきちらしてきた。農業・漁業・林業などを大規模に破壊し、そして、それは、政府権力との共同作業としてやってきたのだ。

 資本の集中と独占資本の技術革新は、大工場の設立と中小企業の系列化と、そのもとにおけれる分業の細分化によって進められ、労働内容は単調化した。

 ところで、働く仲間たち。これらのことは、一体労働者にとって何をもたらしたか。

 1つは、熟練労働者を多く必要としないが故に低賃金構造の維持である。2つは、単調反復労働の増大によって、労働者の機械への一層の従属化と、本来的な労働者の創造の剥奪、つまり生産=労働の目的と意味の完全なる喪失である。3つは、労働密度の絶えざるアップ、夜勤など変則勤務の増大、単調労働による職業病・労働災害の多発と被災者患者の切り捨てである。

4つは、不採算部門・企業の切り捨て再編成による容易な配置転換・解雇と、新たな部門・企業への採用である。もちろんこの採用にあたっては、資本の一方的な裁量権のもとにおこなわれることはいうまでもない。5つは、途方もなく分断・差別した形での労働者の支配である。本工・下請工・嘱託・臨時工・季節工・パートタイマー・アルバイトなどの雇用形態にそのことが表れている。そして6つには、これらのことを一層やりやすくするための労務管理、企業の秩序維持と管理体制の強化、つまり資本の労働者に対する専制である。そして、非常に悲しむべきことは、同盟を先頭に総評をも含めた既存の企業内労働組合が、その程度の差こそあれ、この労務管理機構の一部にくみこまれているのだ。第7に、雇用形態の面から見れば、一部本工エリート社員の企業内定着をはかる一方、企業内定着を前提としない膨大な単純労働者の雇用をおこなう雇用制度の確立である。つまり、従来の終身雇用制度の転換である。多くの労働者にとって、いまや流動化させられる対象となり、労働する機械となったのである。消耗品化した労働力の補充を、資本と権力は徹底的な農村破壊でもっておこなってきたのだ。

 

3、そして、資本のこれらの労働力に対する政策は、さまざまな矛盾をもちながも、労働関係の諸立法や、他の法律によって守られている。労働諸立法は、資本の行動・利潤の追求と存立をおびやかさない程度に労働者を「保護」しているにすぎない。小さな矛盾も基本的矛盾に転化する帝国主義の現段階においては、今まで合法とされた労働者の権利も違法とされるのだ。労働者の既得権は剥奪され、合法領域はせばめられつつある。労働者にとって、政治的自由は工場の中にはない。企業の中では、就業規則が「憲法」になっている。労働者の基本的権利と自由が、政治と不可分に結びついているのにもかかわらず、労働者には、独占資本と権力に対し、彼らの基本的立脚点である企業の中で闘うことを禁止している。警察権力は資本の最も信頼すべきガードマンなのだ。「平穏な社会」はこのようにして維持されてきているのだ。

 

4、さらに、このようにしてGNP世界第3位まで肥大化したわが日本の資本家どもは、アジア・アフリカ諸国へ資本輸出することによって、各国の労働者人民の上にも君臨しつつある。1965年の日「韓」条約はその本格的な第一歩であり、アメリカのベトナム侵略戦争への直接的加担と、1972年5月の沖縄併合は、その大転回をはかるものであった。「資本の侵略のあとに軍隊の侵略がある」という歴史法則を、日本の資本家と支配者どもは貫徹しつつあり、アジア・アフリカ諸国の労働者人民の解放闘争と敵対し、弾圧しているのだ。日本の労働者人民にたいしてだけではないのだ。

 

5、ところですべての仲間たち

 日本の労働者は3300万人と推定され、そのうち労働組合に組織されているのが1160万人、35.4%といわれている。71年現在、この数字は、1160万人の労働者が資本と権力に対し、労働者としての当然の主張をかかげて毅然と闘っている労働者の数を示すものではない。2千数百万人の労働者はいうにおよばず。これらの「組織労働者」の多くは、自らの生命の保持・生活の向上を切望し、資本と権力への従属に対する本能的な拒否感覚をもちながら。資本と権力による搾取と収奪、そして差別・分断・抑圧の支配構造の中で身動きできない状態であるのだ。つまり、既存の企業内労働組合が、労働者の生命と健康、生活と権利、人間らしい労働、政治的自由、反戦・平和を、資本の搾取と分断・差別支配に抗して闘っていない現実を見ざるを得ない。また、他国労働者との真の連帯をつくりだしていない。

 そころで、日本の企業内労働組合の成立は、第1次世界大戦前夜の技術革新の過程と結びついている。労働者の腕から腕へ伝えられた技術・熟練の段階から、資本は、資本の技術・熟練の独占のもとに新しい熟練労働者の養成を必要とした。養成工制度の確立は、年功序列賃金・退職金制度・企業内福利厚生制度等の確立。および日本的家族主義・温情主義のイデオロギーとあいまって終身雇用制度の確立の中心となったのである。労働者にとって企業内昇進と熟練労働者への道は一致していた。企業への忠誠心は労働者の意識の中で定着し、常識と化したといえる。縦断組合・企業内組合は、このような労働者の意識の中で労使協調のイデオロギーのもとに形成されたのである。

 戦後、日本の労働組合は、企業毎に戦前の企業内組合の形態をなぞることによって生まれた。そして、戦後の労働組合が、いくつかの努力はなされながらも、労働市場が買手市場ということもあいまって、企業内労働組合の客観的基礎である終身雇用制度を解体させ、真に労働者の団結を維持。発展させる闘いをなしとげてはこなかった。1960年を前後とするころより、労働市場の売手市場化と資本の技術革新は、この終身雇用制度を再編成するものとしてあった。つまり、一方における技術者の一群と、他方における膨大な単調反復労働者の郡の決定的な分岐は、前者の企業内定着化と後者の流動化とをうながした。この労働者の膨大な部分における流動化状況に対する企業内支配の体制は、差別・分断と資本の専制的秩序によって維持されているのだ。今日、企業内労働組合の基礎は、より体質的に、全本工従業員加入制にあるのではなく、男子本工エリート社員にあるのであり、形式的に加入させられているその他の大多数の労働者は、労働組合という労務管理機構の統制的対象者として存在しているにすぎないのだ。とはいえ、日本の労働組合は全本工従業員加入という「常識」が、なお根強く存在している現実を無視することはできない。それは、なお、その客観的基礎においてすでに崩壊の段階にある終身雇用制度が、一部本工男子エリート社員に適用されていることによって、すべての本工労働者に適用されるが如き錯覚に陥っているからである。労働戦線の統一派である同盟、JC、民同は、自らの存立基盤の脆弱性を本能的に知る故に、男子本工エリート社員による企業内労働組合の統一をはかることによって、資本の期待に応えると同時に、自らの延命をはかろうとしているのだ。そして、彼らは、利潤の分配をめぐる「闘争」、しかも、差別され抑圧されている労働者をなお一層資本の政策に従属せしめることによって、資本と共通の基盤に立って、「闘争」しているにすぎないのだ。

 そして、この企業内労働組合の利潤の分配「闘争」は、「利潤を生み出さない者は人間ではない」という論理、「利潤を生み出す程度と、身分や出身・国籍に応じてランクづけし、差別する」という論理、つまり、「利潤を生み出す諸活動にタテつく者は社会的に抹殺する」という論理、つまり、「利潤を生み出し、それに協力する者」だけが「恩恵」をほんの少しあずかる労働運動そのものであるのだ。

 

6、すべての働く仲間たち

 われわれは、生活と健康、生命、人間らしい労働、政治的自由、反戦・平和を求めて、自らの生産の場と仲間の生産の場を原点として闘いぬかねばならない。なぜなら、社会と国家の秩序は、資本主義的工場制度の中にその原基形態を有しているからである。そして、この工場制度の生産と秩序は、直接、即時的には末端の職制と監督者によって維持されているのだ。労働が日常であるわれわれにとって、われわれの前に立ち現れるのは、決して独占資本の親玉や時の政府の首相ではない、末端の職制と監督者に対する闘いを通じて、彼らの支配構造をゆり動かす闘いが必要なのだ、既存の労働組合がますます中央集権化し、官僚化し、職場の闘いがスポイルしているとき、このことの確認は極めて重要といわなければならない。

 そして、これらの行動・闘いを基底にしながら、総資本と権力への直接的な闘いを組まねばならない。その場合、われわれは、不断の政治意識・階級意識の獲得を必要とするだろう。

 また、これらの闘いを押し進めるにあたって、直接的な労働者の連帯と共同行動をかちとらねばならない。われわれ自身、本工・臨時工・季節工など雇用形態の違いや、企業の違い、産業の違いによって不断に分断・差別されている現実を、闘いの目標や課題だけでなく、労働者の団結形態においてのりこえていくことが必要である。同盟を頂点とし総評まで含む日本の企業内組合が、徹底して本工主義の立場にあるとき、この立場こそわれわれの立場として鮮明にしなければならない。

 労働戦線の統一が、大企業本工組合の、とりわけ組合幹部の「統一」としてあるとき、それは明確に現存の資本と権力による労働者分断・差別政策を助長するものであるが故に、全労働者の中に分裂をもちこむものであることを批判・糾弾しなければならない。労働者の団結は決して資本・権力と、同盟、JC、総評、民同幹部の団結に置きかえてはならない。

 さらに、われわれ自身、単なる同盟、総評などの既存の労働組合運動の批判者としてではなく、大きな一大社会勢力に自立成長をとげねばならない。労働者の真の団結による社会的規制力をもつ労働組合へ、われわれは出発・成長しなければならない。

 

7、すべての働く仲間たち

 「万国の労働者団結せよ」と叫んだ先人の言葉を今一度思いおこそう。それは、資本・権力によってつくられた雇用形態や、企業・産業および国籍・民族による労働者人民への差別・分断による支配に抗して、搾取と収奪と人間崩壊に対して闘えということなのだ。そして、労働者の解放をかちとるために団結せよ、と叫んだのだ。

 現在、多くの地で、資本と権力による搾取と収奪・人間崩壊に対し立ち上がりつつある労働者と労働組合が生まれつつある。われわれも資本と権力の労働者支配に抗して、真に人間らしい生活と健康・権利を維持拡大し、人間らしい労働と政治的自由を獲得し、国際的な労働者連帯の立場にたって、ここに関西単一労働組合を結成する。

 同盟を頂点に総評をも含む既存の労働組合が、産業報告会的右翼統一戦線にまい進しているとき、真の労働者解放の団結組織――労働組合を生みだしたことを誇りに思うと同時に喜びに思うものだ。

 われわれは、われわれの労働組合を1つの基礎とし、現在、真に資本と権力に抗して立ち上がりつつある労働者と労働組合とともに新しい全国的労働組合――ナショナル・センターの形成をめざすであろう。

 

すべての労働者の仲間たち

 企業・産業を越え、雇用形態を越え、国籍・民族を越え、わが関西単一労働組合に結集することを呼びかける。今こそ、賃金奴隷からの解放――賃金制度の廃絶と労働者の解放へ向けて、既存労働組合運動の限界を身をもって突破する労働組合運動を開始しようではないか!

 

 1972年11月26日

                            関西単一労働組合結成大会

 

 

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